CRAZY KITCHEN

CONTACT
お問い合わせ
03-6426-6280

COLMUNコラム

<杏理さんに聞いてみた vol.2> |“人見知り杏理”が起業するまで

杏理さんに聞いてみた

DATE
2024/11/25

みなさん、こんにちは。「CRAZY KITHCHEN」のウェブサイトにようこそ。
ケータリング企業「CRAZY KITCHEN」を率いる土屋杏理さんの視点を通して食とは何か、社会と女性との関わりとは、現代をしなやかに生きるって?……などさまざまな事象を考えてみようという、この連載。
食のジャーナリスト山口繭子が、杏理さんを縦横斜めに眺めつつお伝えします。
2回目の今回は、一人の内気な少女が起業家となった道筋を伺いました。

●「おいしい」以上に大切な何かを世に伝えたい
完全オーダーメイドによる企業やブランドのイベントや発表会での食、「ケータリング」業を営む「CRAZY KITCHEN」。クライアントの想いやイベント実施の先にある“目指すべき着地点”までを視野に入れ、他にはないユニークな食体験・食時間を創造するのが、代表を務める土屋杏理さん(以下、杏理さん)の仕事です。

前回、これまであまり語られることのなかった「オーダーメイドのケータリングとはどのようなものなのか」について、ほんの一端ですが紹介させていただきました。
筆者である私の本業はフードジャーナリストです。そんな私が杏理さんの話を聞いて面白いなと思ったのは、第一義においしさではなく、CRAZY KITCHENが届けるフードやドリンクによって人々の記憶に大切な瞬間を刻むことであると断言されたことでした。「そこにその食がある意味」を最も大切と考えるその姿勢は、杏理さんの個性でもあります。
もちろん、プロのケータリングなのでおいしいのは当たり前! そして企業やブランドといったクライアントの想いを背負う立場ゆえに、見た目に美しくゲストの心に刺さる内容であることも重要です。
その上で「でも、もっと大切なものがある。それがその食の背景に存在するべきストーリーなんです」と言う杏理さん。自らの世界観とプライドを提供するのがレストランシェフの仕事であるのに対し、とことんクライアントに寄り添って、彼らが無意識の中に抱いているメッセージを食で表現する、それがケータリングという仕事なんだと納得です。

●結婚式の裏側は、戦場のような忙しさ
もう一つ、杏理さんと話していて感じたのは圧倒的な落ち着きでした。毎回が初現場、毎回が新メニューというケータリング業、しかも売れっ子ということで、準備、人繰り、現場、撤収など、どれだけ忙しいかはぼんやり想像がつくのですが、その想像と目の前でニコニコと話す杏理さんとが結びつきません。
けれど、それを伝えたところ破顔一笑。「昔の職場の同僚が聞いたら大笑いすると思います」といいます。

「大学を出て新卒で入った会社は広告代理店でした。本当にタフな職場で、我ながらよく頑張ったと思います。軽くパワハラ&ブラック環境だったのかもしれませんが、当時2000年代後半は広告代理店だけではなくどんな職場でも珍しくありませんでした。そこで私はクライアントとの付き合い方、先輩や上司との接し方など、約7年間、肌で吸収するかのように覚えたんです。その後『クレイジーウエディング』という先進的なウエディングプロデュース会社に転職したのが2012年のこと。創業メンバーとして携わったのですが、ここが前職の広告代理店に輪をかけたような激しい仕事内容で。2015年秋に社内起業という形で始まったのが現在私が手掛ける『CRAZY KITCHEN』なんですが、結婚式のフードとドリンクをクリエイトするという夢々しい雰囲気とは相反して、現場の裏側ではいつもきりきり舞いで、叫ぶように指示出しして自分も無我夢中で走り回ってるという感じでした」(杏理さん)

「現場ではキレてばかりだった」と自らを振り返る杏理さん。当時、有名なドキュメンタリー番組でクレイジーウエディングの舞台裏が取り上げられた時、華やかなウエディング会場の舞台裏に足を踏み入れた映像カメラマンは、その“戦場っぷり”に驚いたといいます。

「撮った動画をこのまま放映していいですか、と問い合わせがあったそうです、お恥ずかしい話ですが(笑)。でも構わないと思いました。だって、一生に一度の結婚式を挙げるお二人ですもの、結婚式に支障をきたす方がよほど申し訳ないことです。大丈夫、戦場なのは裏側だけですし、日々、私を含めたスタッフみんなに耐性が増していく日々でした」(杏理さん)

●プライドの高さと負けん気をエネルギーに変えて
杏理さんが今の落ち着きを身につけたのは何がきっかけだったんでしょうと聞けば、「落ち着いてはいませんね、今も」という答え。しかし同時に、「時間を経るにつれて徐々に、自分のエネルギーや想いを別の形にできるようになったのかもしれません」と語ります。
ハードな広告代理店での新卒時代を経て、目が回るように忙しいウエディングプロデュース企業での日々、そして独立。20代で結婚し39歳で第一子を出産した杏理さんですが、仕事に対する姿勢はライフイベントにもさほど影響されず、常に一貫してきました。

「思えば、学生時代のアルバイト時代から、仕事に対して変なプライドみたいなものがありました。とあるカフェで働いていたのですが、そこも厳しい人の多い環境で。でも、そんな状況だとますます簡単に辞めてなるものか、となってしまう。惜しまれて辞める、そんな存在を目指してしまうんです。謎のプライドの高さとエネルギーに自分自身も疲れつつ、それでも進むしかありませんでした」(杏理さん)

●「話し相手は自分」だった少女時代
東京生まれ東京育ちの杏理さんの幼少時、友達はといえば家で絶え間なく飼っていたさまざまな動物たち、そして自分だったといいます。動物愛護の活動をしていた母親の影響で、ずっと家には犬がいました。また、野良猫の保護活動は中学時代まで長く続け、引き受け手のいない野良猫のケアや環境改善は杏理さんのミッションでした。さらに、魚、昆虫、傷ついた野鳥の保護など、家には常に生き物が杏理さんを必要としており、「愛玩動物というよりは、生活を共にする仲間という感じでした」といいます。

「幼少期の私は、極度の人見知りで内向的な子どもでした。人と接するのがとにかく苦手。動物たちと関われば寂しくはありませんでしたし、語り合う相手は自分自身でした。ただ、内向的である一方、周囲や自分に対する強烈なジレンマのようなものから逃れられなかった。自分を相手に問いかけるわけですよ、クラスの人気者と比べて『なぜ私は、そのように振る舞えないのか、何が違うのか?』って」(杏理さん)

おとなしくてもの静かな動物好きの少女。しかし、内側ではたくさんの疑問が渦を巻くようにエネルギーを放っていて、熱い感情を時に持て余しながらも成長していった杏理さん。大学時代にスタートした「働く」という行為は、そんな衝動を波動砲のごとく真っ直ぐにぶつけ、浄化させる解決策だったのかもしれません。

自らを救い、社会に貢献することもできる、それが仕事。ましてや、与えられる仕事ではなく、さまざまな提案をクライアントに届け、形のないものをケータリングという温かで印象に残る空間に仕上げていく自分ならではの仕事です。アルバイトも、その後のハードな職場環境もものともせずに邁進してきた裏にあったのは、ここでなら本来の土屋杏理が抱く大きなエネルギーを残さず消化できるという確信でした。

●老いたオードリー・ヘップバーンが理想
猛烈に仕事をする人に私はいつも問いたくなることがあります。「その先にあるものは何? 着地点はどこにあるんでしょうか?」と。なぜなら、自分も含めて思うのですが、多くの人が単に「がむしゃらに働く」、あるいはその逆を目標にしてしまっていて、遠く彼方にある本質的なゴールについては見えるどころか考えてもいないことが多いからです。
毎日が飛ぶように過ぎていくと語ってくれる杏理さん。けれど、彼女がふと幼少期を思い出して語った言葉を聞いたとき、「この人はきっと着地点が見えている」と感じました。

「悩みの深かった小学校時代でしたが、一つ忘れられないシーンがあります。社会の教科書で、ユニセフの活動をしているオードリー・ヘップバーンの写真を見た時のことでした。それまで、オードリー・ヘップバーンといえば有名な女優であることしか知りませんでした。ところが教科書に載っていたのは、しわしわの老婆になった彼女が満足げに社会貢献活動に勤しむ姿。あんなに美しい女優が歳をとるということにも驚きましたが、同時に『これこそが理想だ!』と感銘を受けたんです」(杏理さん)

若いときは自らの天分を生かし、演技という表現活動を通して世界に愛された大女優。そんな人が、老いた姿を恥じるどころか満ち足りた笑みを浮かべて社会に何かを与えようとしているシーンは、杏理さんの心に小さな灯火を与えてくれたといいます。自分のために生き、他人のために骨を折る。そんな生き方ができる人になりたいと思ったことから、ようやく行き場のなかったエネルギーは一つの方向に流れるようになったと語ってくれました。

●よく生きる、豊かに生きる
そんな話を聞いていると、杏理さんと最初会った時に感じた謎がまた一つ解けていくような気がしました。それは、杏理さんと「食」との適切な距離感。杏理さんは食の仕事を生業(なりわい)にしながらも、それは手段であり、自己表現ではなく社会的に価値あるものを生むためにたまたま食が媒介だったのだな、という発見です。
料理を仕事にしている人は往々にして「寝ても覚めても料理が好き、食が生き甲斐」というタイプが多いように思います。もちろんそれは尊いことですし、シェフや料理人にとっての正義でもあります。
その一方で思うのは、食も多様性の時代であるということ。それも、私たちが子どもだった頃とは比べ物にならないほどさまざまな意味を持つようになっています。食べることは、生物としての基本行動でありながら、心を満たす行為でもあり、大切な人との関係を構築するものでもあります。それだけではありません。何を食べるかは今やその人の信条を示すものであり、地球環境への手助けになったり逆に脅威になったりすることも。

口に入るものを豊富なバリエーションから選択できるようになった現代だからこそ、ケータリングは「何を」「どう食べるか」の意味を世に問うことのできる仕事でもあります。
弱い自分にとことん向き合い、晩年のオードリー・ヘプバーンの姿に「よりよく生きる」の意味を感じ取った杏理さん。しゃかりきになって働きながらも、常に視点はちょっと遠くを見つめています。おいしい、楽しい、うれしい、忘れられない、そんな食。CRAZY KITCHENのケータリングには、杏理さんの熱い思いがぎゅぎゅっと詰まっている気がします。

ではまた、こちらでお会いしましょう。

文/山口繭子
神戸市出身。『婦人画報』『ELLE gourmet』(共にハースト婦人画報社)を経て独立。現在、食や旅、ライフスタイル分野を中心にディレクションや執筆で活動中。https://www.instagram.com/mayukoyamaguchi_tokyo/